教科書には載らない『徒然草』〜兼好の女性観を知ろう〜

ひつじ先生より

兼好法師というと、その呼び名から俗世間と縁を切ったお爺さんを想像してしまうが、それは間違いです。当時の法師の多くは、俗人と同じ生活を営んでいたからです。本日は、兼好法師の「人間的」な部分がよく現れた部分を紹介しようと思います。特に、この兼好法師は、江戸時代に入ると、「粋法師(すいほうし)」とか「恋知り」とも呼ばれており、恋愛達人の称号を与えられているのです。『太平記』という歴史物語には、時の権力者である高師直(こうのもろなお)に呼ばれて、ラブレターの代作をしたという話もあるのですから。


モテる男の条件とは!?

本文 3段

よろづにいみじくとも、色好まざらむ男は、いとさうざうしく、玉のさかづきのそこなき心地ぞすべき。
露霜にしほたれて、所定めず惑ひ歩き、親のいさめ。
世のそしりをつつむに心のいとまなく、あふさきるさに思ひ乱れ、さるは独り寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。
さりとて、あらまほしかるべきわざなれ。

現代語訳

(どんなにすばらしくても、恋の真味を知らない男は、非常に物足りない。
みごとな玉製の杯の底が抜けたように、見かけだけで、男の魅力が欠けている。
早朝から深夜まで露・霜に濡れながら、恋人たちを渡り歩き、親の説教や世間の非難をかわすために神経をすり減らし、あれこれと気をもんでいる。
そのくせ実際には、独り寝が多く、恋人と共寝する夜の少ないのは、なんともおもしろい。
それほど恋に夢中だからといっても、やたら性欲の塊みたいに、がつがつすることなく、女性にいつも好感を持たれるように節度をもって行動するのが、理想的である。)

ひつじ先生
(恋の面白さをわかっていない人は、趣がなく、底が抜けた杯だと例えていますね。まさに、恋愛達人だからこそ、言える言葉なのではと感じます。お坊さんがこんなこと言って良いのか?と少し疑わしくなりますが、兼好法師は、『徒然草』の中で、恋愛に関する心構えだけでなく、女性についても話を残しています。

女の色香の魅力

本文 8段

世の人の心惑はすこと、色欲にはしかず。人の心は愚かなるものかな。
匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫き物すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。
久米の仙人の、物洗ふ女の肛の自きを見て通を失ひけむは、まことに手足肌などの清らに肥え脂づきたらむは、外の色ならねば、さもあらむかし。

現代語訳

(色欲ほど人間を迷わせるものはない。なんて人間はばかなんだろう。香りなんか、ほんの一時的なものなのに、着物に薫き染めた香りとは知りながら、すばらしい芳香をかぐと、心をときめかせてしまう。
その昔、久米の仙人が、川で洗濯している女の、裾をたくし上げてあらわになったすねをみて、神通力を失い、空中から落下したという伝説がある。
女の手足や肌がきめこまかくて、むっちりと脂ののっているのは、他の色と違って女の色香だから、そこそこ人間臭さを残していた仙人が心惑わされたのも、当然といえば当然だった。)

ひつじ先生
(きっと兼好法師にも同じような経験があったのだろうと想像できます。人間を惑わすものは、いつの時代も色欲であると断言しています。神様だってそうなのだから仕方がない。出家をした身でありながらこんなことを言っています。ある意味、人間的で好感が持てるのではないでしょうか(笑)。

女の本性はねじ曲がっている!?

本文 107段

かく人に恥ぢらるる女、いかばかりいみじきものぞと思ふに、女の性はみなひがめり。
人我の相深く、貪欲甚だしく、ものの理を知らず、ただ迷ひの方に心も早く移り、詞も巧みに、苦しからぬことをも間ふ時は言はず、用意あるかと見れば、また浅ましきことまで間はず語りに言ひ出だす。
深くたばかり飾れることは、男の智慧にも勝りたるかと思へば、そのこと後より顕るるを知らず。
素直ならずして、 つたなきものは女なり。
その心に随ひてよく思はれむことは、心憂かるべし。
されば、何かは女の恥づかしからむ。

現代語訳

(こんなふうに、男に強く意識されている女という存在は、どれほどすばらしいかと思うと、実際はまるで逆、女の本性はゆがみきっている。
自分を主とする利己主義で、欲望が激しく、ものの道理をわきまえない。
やたらと悟りの妨げとなるものに飛びつき、日が達者で、そのくせ、とくに遠慮のいらないことでも、こちらが聞くと黙り込む。
そこで、何か気配りしているのかと思うと、とんでもないことまで、聞きもしないのに、自分からしやべりだす。
本心を隠し、外見を飾ることでは、男よりもはるかに頭が回る。
が、じきにばれてしまうことに気づかない。
まことに、女というものは、素直さに欠けた、くだらない存在である。
だから、そんな女の心に合わせて、よく思われようとすれば、うんざりするのは当然だ。
なんで女なんかに気を遣う必要などあるものか。

もし賢女というものがいるとしたら、逆に、女らしさがなくて、ぞっとするに違いない。女というものは、その色香に支配されて彼女の言いなりになっているときだけ、優しくて魅力ある存在に思えてくるような代物にすぎない。)

ひつじ先生
(女の本性はねじ曲がっていると言い放つ兼好法師。昔よっぽど、何か大きな失恋でもあったのではないかと想像してしまいます。もう女にはコリゴリだ、という雰囲気がぷんぷんします。でも、私には、女への興味があるからこそ、悪口を言ってしまうのではないかと感じてしまいます。

独身万歳!!

本文 190段

妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ。
「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心憎けれ。
「誰がしが婿になりぬ」とも、また、「いかなる女を取り据ゑて、相住む」など聞きつれば、むげに心劣りせらるるわざなり。
殊なることなさ女を、よじと思ひ定めてこそ添ひゐたらめと、賤しくも推じ量られ、よき女ならば、らうたくして、あが仏と守りゐたらむ。
たとへば、さばかりにこそとおぼえぬべし。
まして家の内を行ひ治めたる女、いと口惜し。
子など出で来て、かしづき愛したる、心憂し。
男亡くなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし。
いかなる女なりとも、明け暮れ添ひ見むには、いと心づきなく、憎かりなむ。女のためも半空にこそならめ。
よそながら、時々通ひ住まむこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。
あからさまに来て、泊りゐなどせむは、珍しかりぬべし。

現代語訳

(妻というものは、男の持ってはいけないものである。
「いつまでも独身でいる」などと聞くと、その男性の人柄に深みが感じられる。
だから、「どこそこの婿に入った」とか、また、「これこれの女を家に入れて同居している」などと聞くと、心底、幻減を感じさせられてしまう。
どうせ、たいしたこともない女を最高だと舞い上がって、夫婦となったに違いないと、男の態度が安っぱく想像されてくる。
反対に、いい女ならば、かわいがって自分の守り本尊のようにたいせつに世話しているのだろう。
たとえてみれば、そんな程度だろうと思われてくるはずだ。
これらにもまして、家庭をきちんと切り回す女はじつにつまらない。
子どもなんか出来て、愛情こめて育てる姿にはうんざりさせられる。
さらに、夫の死後、尼になって年をとるさまは、夫の生前中はもちろん死後までもひどいものだという気がする。どんな女だろうとも朝晩いっしょに顔を突き合わせていたら、気に入らない点が出てきて、いやになってくる。
それは、女にとっても家庭内離婚のように、中途半端な状態になるだろう。
要するに、互いに離れて暮らしているままで、ときどき女を訪ねて泊まるような形にすれば、長年たっても二人の伸は切れることがないだろう。
不意に訪れていっしょに寝泊まりなんかすれば、二人とも新鮮な気分を味わえること間違いなしである。)

ひつじ先生より

いかがでしたか。今回は、兼好法師の女性観を中心にピックアップしました。妻は持つべきものではないと言いつつも、最後は距離感を保てば、良い夫婦になることを伝えています。今でも充分に通じる部分があるのではないでしょうか。『徒然草』により興味をもってくれたら幸いです。読んでいただきありがとうございました。

参考文献

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